ハワイでマラソン!目指すはゴール!

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アメリカ合衆国50番目の州へ

ハワイはアメリカの領土の一部から、明確な州として確立させようという動きは、ハワイ王国、カメハメハ3世時代から何度も持ち上がった意見でした。

ハワイを州へ

1854年に、親米派として知られるカメハメハ3世は、内部勢力や欧州列強の圧力からの保護を求めて、ハワイ王国をアメリカの一州として併合するようアメリカ政府との交渉に乗り出しました。

しかし、次代のカメハメハ4世が親英であったこともあり、そのままうやむやの状態でカメハメハ3世が亡くなりました。そしてカメハメハ3世の死後、この話は立ち消えとなりました。

1900年のハワイ併合時にも、議題としてハワイ立州案が挙げられました。サンフォード・ドールは知事就任演説でハワイの立州化について言及しました。1903年、ハワイ領土議会は連邦議会に対して、ハワイ立州法案の審議を請願しました。

1919年にはハワイ選出の連邦議会代議員のジョナ・クヒオがハワイ立州を訴えて、連邦議会による立州に向けた調査が開始されました。

そんな中で、1931年9月、トーマス・マッシー中尉の夫人、タリア・マッシーがハワイの地元の若者集団「カリヒ・ギャング」に暴行を受けたとして訴えて、5人の若者が容疑者として逮捕されました(マッシー事件)。タリア・マッシーはこの5人に間違いないと証言しましたが、弁護側が5人のマッシー夫人の証言とは矛盾する材料を証拠として提示したために、「陪審不一致」として5人の若者は無罪となりました。

この「マッシー事件」はアメリカ本土でセンセーショナルに報道がなされました。「ハワイの警察制度は古臭く、治安を維持する能力に欠ける」といった世論が形成されていきました。マッシー中尉はこの結果を不服として、仲間と共に容疑者の一人ジョセフ・カハハワイを誘拐して、拷問の末に、殺害してしまいます。陪審は加害者らを懲役10年の有罪としましたが、世論はマッシー中尉の行為を「正当防衛」「名誉ある殺人」として、ハワイの裁判過程に不満を表しました。これを契機として、連邦議会ではハワイの自治権剥奪などを盛り込んだ改正法案の提出がなされることになり、マッシー事件はハワイ自治権の危機にまで発展することになりました。ハワイ知事はマッシー中尉らを「禁固1時間」に減刑することに至りました。

米国連邦議会の従属的な立場にあると痛感したハワイの指導者層は、その後活発なロビー活動を行うようになります。1934年に選出された代議員サミュエル・キングによって1935年、立州法案が正式に提出されて、ハワイ立州承認問題の調査委員会が組織されました。

1940年には立州に関する住民投票が行われ、有権者の3分の2以上が立州を望んでいることが判明しました。こうした動きは第二次世界大戦により一時中断されましたが、軍事政権下での抑圧とその解放を経験したハワイの市民は、アメリカ合衆国の国家の一員としての意識が高まり、戦後はさらに声高に立州運動が叫ばれるようになりました。

ハワイ出身の代議員ジョセフ・ファーリントンの強い働きかけによって、また、ハリー・S・トルーマン(第33代大統領)の支持もあったことから、1946年連邦議会はハワイをアメリカ合衆国の正式な州とすべきかどうか、再度検討をはじめます。ファーリントンは翌年、ハワイ立州法案を連邦議会に提出しましたが、上院で廃案となり未達に終わりました。しかし、これをきっかけとして、ハワイ立州化は共和党や民主党のマニフェストに組み込まれるなどして、大きな動きを持つようになりました。一方で立州化反対派は、ハワイを東西冷戦を背景とした共産主義者の活動拠点であると決めて、その分子をアメリカの政治経済の中に取り込むことは危険なこと。としていました。

1950年代に入ると公民権運動が活発化します。これに便乗する形で、ハワイ並びにアラスカの立州化運動が行われ、1959年3月11日、連邦上院で賛成76、反対15で可決、連邦下院で賛成323、反対89で可決します。連邦議会はハワイ州昇格を承認しました。ドワイト・D・アイゼンハワー大統領が1959年8月21日、宣言書調印を行い、正式にアメリカ合衆国の50番目の州に認められることになりました。「今や私たちは皆ハオレ」といった流行語が誕生するほど歓迎ムード一色となり、ハワイ市民は達成感と新たな期待に酔いしれることになりました。

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観光都市ハワイ

1959年に立州化して10年間で、ハワイはホテルやマンションの立ち並ぶ都会へと変貌するため、総額34億ドルにも上る建築が行われました。ディリンガムのハワイアン・ランド社による初の大型ショッピングモール、アラモアナショッピングセンターの開業(1959年)に、ジェット空路の連絡、貨物、旅客、車両を運搬する大型船舶のための埠頭の建築、陸上幹線道路や水道の整備など、リゾート観光開発とそれに伴うインフラの近代化が加速しました。

1963年のアメリカ人に対するギャラップ調査で「金銭的なことを考えずに休暇を過ごしてみたい場所」ランキングで、2位のカリフォルニアに2倍近い差をつけた1位を獲得。ハワイ立州を契機として観光産業が繁栄して、アメリカ国内外を問わずに、観光客のハワイへの訪れは着実に増加して、1967年12月28日に、100万人目の観光客を記録しました。

1964年に日本が旅行規制を解除しました。そして、日本人観光客を見込んだハワイでは、日本語表示の導入や従業員への日本語教育を本格的に導入します。1970年からはパッケージツアーが本格化して、日本資本がハワイには欠かせない収入源となるほどにまで発展していきました。

こうした日本の動きは投機面においても無視できない存在にもなりました。1962年、日本の実業家の小佐野賢治(国際興業グループ創業者)が、ワイキキのモアナ・ホテルとプリンセス・カイウラ・ホテルを1940万ドルで買収したのを皮切りとして、1972年までの10年間で50以上の日本の会社がハワイの不動産や企業を買収していき、ハワイ支店を開設しましした。1974年にはハワイ州上院議員アンダーソンらが「日本の経済侵略」として警鐘を鳴らすなど、社会問題として日本人の不動産や企業買収が取り上げられるようになりました。

1980年代に入ってもこの動きは加速の一途を辿ることになります。川本源司郎(丸源ビルオーナー)や、川口勝弘(元祖地上げ屋と言われた八大コーポレーション)といった日本人投資家の不動産買収の話題が紙面上で踊ることになりました。「ジャパンマネー」に対する世論は、非常に硬化していきます。ハワイ大学イースト・ウエスト・センターの研究者や経済評論家クライド・プレストウィッツなどが「ジャパンマネー」がハワイに与える影響やその問題を、強く憂慮し警笛を鳴らしました。

また、高級リゾートホテルと並び、開発のシンボルとされたのがゴルフ場で、1992年時点で68のゴルフコースがあり、さらに同年に、州政府に対して93件のゴルフ場開発の申請が出されるなどして、ゴルフ場建設ラッシュとなりました。しかし、ゴルフ場の開設は素朴で質素な生活を求める地元住民との摩擦を生むことになり、問題となりました。これに対してファシ市長は、公共設備開発使用料(インパクト・フィー)としてゴルフ場1件の開設につき1億ドルを支払うよう開発者側に求めます、そのお金を地元へ還元することで、摩擦の解消を図りました。

1980年代の後半になると、日本の国内外での投機的不動産投資の影響によって、土地と住宅価格の高騰が起こりました。しかし、インフレを懸念した日本政府や日本銀行の締め付けによって、投資欲が減衰し、1989年10月、東京株式の暴落(バブル崩壊)が起こり、ハワイにおいても日本企業、日本人投資家からの投資が減退しました。その結果、進行していた数々のホテルやゴルフ場の開発プロジェクトがその計画半ばにして頓挫し、棚上げされることになりました。

1967年には、観光業は砂糖・パイナップル産業の収入を超えて、名実共にハワイ最大の産業となって右肩上がりの成長を続けてきましたが、1991年に初めて前年比1.2%減という落ち込みを記録しました。

初めての落ち込みを記録したというものの、ハワイはアメリカ本土・カナダ人にとって魅力に溢れる観光地でもあり、日本人も何回も足を運ぶ渡航先として、人気の観光地であることには変わりはありません。

ハワイでランニング

ハワイ文化の変化

ジェームズ・ミッチェナーの小説『ハワイ』は、アメリカ全土で広く愛読されている小説で、映画化もなされました。

このような文学作品の中では、ハワイ先住民は前半の王朝史を彩る悲劇の主人公として描かれていますが、近代化と共に姿を消して、ハワイの歴史として「封建社会の滅亡と近代の夜明け」といったステレオタイプに語られることが多いです。これは英語教育をはじめとする同化政策による民族意識の希薄化と、混血が進んでいきハワイ先住民が消滅していっている事が原因として考えられます。この状況に危機感を覚えた1970年代以降に、黒人運動や文化的多元主義の広まりとともに、ハワイ先住民の復興運動がにわかに叫ばれるようになりました。

1974年、アメリカ先住民事業法が連邦議会を通過し、ハワイ先住民が正式にアメリカ先住民として認められるようになりました。

1978年、州政府はハワイ人問題事務局 (OHA) を設置して、ハワイ先住民が抱える問題への解決に注力するようになりました。ハワイアン・ミュージック、フラ、パニオロなどのハワイの伝統芸術を復古させようとする動きのほかにも、ハワイの伝統ゲームコナネの普及や、アフプアアやペトログリフのような先住民が築いた制度や史跡の研究と復活、ホクレア号によるハワイ先史時代の歴史の検証、食文化の復興によるハワイアン・パラドックスの解消など多方面に伝播して活発化されます。このような動きは、ハワイアン・ルネッサンスとも呼ばれるようになりました。

ジェームズ・ミッチェナーの小説『ハワイ』映画化

1966年12月10日公開、監督はジョージ・ロイ・ヒル。ハワイに赴任した宣教師夫妻の年代記ものです。1820年代の未開のハワイに根をおろし、因習、疫病などと闘いながら今日のハワイへの第一歩を築いていくカルビン派の宣教師夫妻の愛と献身を描いています。出演は、ジュリー・アンドリュース 、マックス・フォン・シドー、 リチャード・ハリス、 トリン・サッチャー。

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