ハワイでマラソン!目指すはゴール!

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アメリカの軍事拠点として その1

現在、アメリカ海軍(the U.S. Navy)の軍事拠点の1つとなっているパール・ハーバーです。アメリカの軍事拠点となった背景に迫ります。

ハワイがアメリカへの併合後

アメリカ合衆国の併合によって、既存の労働契約が無効化されました。無効化されたことによって、契約移民としてハワイに多数、居着いていた日本人労働者がその過酷な労働契約から解放されることになりました。日本人労働者は洪水のようにアメリカ本土への渡航をはじめました。1908年までに、3万人強の日本人がアメリカへ移住したとされています。

こうした日本人移民が問題視されて、アメリカでの排日移民運動へと繋がっていきました。1907年に転航禁止令が公布され、翌1908年には日米間で行政処置としてアメリカ行き日本人労働者の渡航制限を設ける日米紳士協約が交わされました。また、ハワイ本土でストライキが法的に有効になったことを受けて、ストライキを実行する労働者が増加しました。

アメリカ本土で、排日運動が活発化することによって、ハワイにおいても日本人に対する風当たりは、日を追うごとに厳しいものになっていきました。当時ハワイに住んでいる2万人を超える日本人の子供たちのために、ハワイでは150校以上の日本語学校が開設されていましたが、国粋主義を吹き込んでいるとの批判がなされました。

こうした日本人の生活形態や日本人労働者とその子供たち対する批判は、英字新聞によって頻繁に取り上げられることになり、日本人排斥論として世論を形成していくものになりました。こうした批判からくる不信感は、やがて共産主義者の陰謀論などと結びつけて、日本人に対する恐怖感や嫌悪感を市民に助長する結果となりました。

そんな中で、第一次世界大戦が終結。生産の機械化や合理化が労働を奪ったことにより、アメリカに不況の波が押し寄せると、移民の数を制限しようとする動きが出始めました。

1924年には移民数の上限を15万人に制限する法案が可決され、その割当数は北欧系に有利なものとされました。

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太平洋戦争開戦

1941年12月7日、日本軍による奇襲作戦の真珠湾攻撃が行われました。約8時間半後の午後4時半には、ハワイ全土に戒厳令が発令されました。3年後の1944年10月24日に解除されるまで、多くの戦時規制がなされました。ハワイは重要な軍事拠点として、軍事拠点としての役割を果たすこととなり、軍事基地の建設が加速して、太平洋戦遂行の本部としてイオラニ宮殿に軍事政府が新設されました。

裁判権も軍の管理下におかれ、逮捕令状無しでの拘束も認められました。住人には門限が設定されて、常に身分証の携帯が義務付けられ、指紋登録が強制されることになりました。そして電話の盗聴が実施され、全ての出版物、手紙が検閲の対象となり、日本語によるラジオ放送などは即座に禁止されました。

開戦と同時に、日系人に対する不信感はますます高まり、1942年1月5日には徴兵年齢の日系2世男子は4C(敵性外人)に分類されました。そしてすでに徴兵・編入されていた日系兵士は、解任もしくは除隊させられました。日本語学校教師やジャーナリストなどは、「特に危険」とされ、1500人にも上る日本人・日系人が強制収容所へと送られました。ハワイ地方防衛軍として国防に従事していた日系2世シゲオ・ヨシダは、防衛総司令官デロス・エモンズにアメリカに対する忠誠を誓う嘆願書を送付して、日系人による陸軍部隊である第442連隊戦闘団の前身となる大学勝利奉仕団 (V.V.V) を結成しました。

また、当時人口約26万人だったハワイには、太平洋戦争開戦になり100万人とも言われる兵士と、10万人近い新しい労働者たちがやってきました。ハワイは、軍需景気に沸きましたが、男女比は著しく不均衡となりました。アメリカ本土では1941年に兵士に対する売春行為が禁止されていたにもかかわらず、ハワイでは特例的に認可される状況でした。こうした現象は、ハワイで暮らす地元の女性にとっては脅威となり、アメリカ人兵士によるレイプ犯罪は後を絶たつことはありませんでした。

大学勝利奉仕団(Varsity Victory Volunteers)

太平洋戦争中のアメリカ合衆国ハワイ準州において、ハワイ大学の学生を中心とした日系二世の若者たちによって結成された準軍事組織です。愛称は「トリプルV」で、正式な名称は「補助工兵部隊」(Corps of Engineers Auxiliary)です。

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結成まで

ハワイでは、日本軍による真珠湾攻撃を受けた直後に、ハワイ大学の予備役将校訓練課程(ROCT)は、即座にライフル銃を支給されました。セント・ルイス・ハイツというハワイ大学近くの高台に降りた。と報告されていた日本軍の落下傘部隊に応戦する命令を受けて、派遣されました。

その報告自体は誤報でしたが、7日の午後にROCTはハワイ準州兵隊(HTG)の指揮下に入り、ハワイの軍事重要地点の警備にあたりました。そしてこのROCTには、多くの日系二世が含まれていました。しかし、このような二世の働きがあったにもかかわらず、日系人に対する不信感と不忠誠という嫌疑は大きくなっていきました。1942年1月19日に日本人の血を引く全てのアメリカ人が、「4-C(徴兵不可の外国人)」という軍から受け入れを拒否される最低の徴兵資格に落とされて、何の説明もないまま除隊させられることになりました。

しかし、アメリカ人として祖国に尽くすことを望んだ二世の若者達は、嘆願書をエロス・エモンズ元帥に提出します。

下に署名した我々は、その最近の除隊までハワイ準州兵隊の一員だった者達である。我々は、この国から必要とされた時に、祖国に奉仕する方法の一つとして、自発的に準州兵隊に入隊した。言うまでもなく、準州兵隊からの除隊を命じられたときは、酷く失望した。ハワイは我々の故郷である。アメリカ合衆国が我々の国である。我々はたった一つの忠誠心しか持たない。それは星条旗に対してである。我々は可能な如何なる方法によってでも、忠実なアメリカ人として最善を尽くしたい。

これを受けて、エモンズ元帥は日系アメリカ人から成る労働奉仕を行う歩兵大隊の編成を決定します。1942年2月25日にスコフィールド・バラックスに置かれる、第34戦闘工兵連隊の配下にあるアメリカ陸軍工兵部隊として、VVVが結成されました。

VVVは1943年1月31日まで存続しましたが、その約1年間にわたって、169名の二世達は活動を続けました。アメリカ軍の為に倉庫を建設して、有刺鉄線を張り、掲示板や棚を作り、岩を採石しました。そして一人が一人が、何回もの献血に応じ、約28,000ドルにのぼる戦時債権を購入したりといった考えられる全ての仕事をやり遂げます。簡易ベッドとマットレス、食事とほんの少しの小遣い程度が与えられる以外は、すべて無償で活動を続けました。

このようなVVVの働きぶりを見て、スコフィールド・バラックスにおける他の非日系人部隊からも次第に信頼を勝ち得るようになり、同地で得たどんな仕事でも喜んでやるという評価と、一足先にアメリカ本土で訓練を受けていた第100歩兵大隊が出した訓練成績の優秀さがエモンズ元帥の耳に届きました。そして、日系人の志願兵をアメリカ軍に入隊させるという動きが加速することになりました。

1943年夏には、多数のVVV出身の志願兵が第442連隊戦闘団の一員として、ミシシッピ州のキャンプ・シェルビーで訓練に入りました。

現在のハワイでは、日系人部隊編成のきっかけを作っただけでなく、ハワイにおける日系人の地位向上にも一役買ったとの評価を得ています。

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