ハワイでマラソン!目指すはゴール!

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ハワイ王国繁栄と衰退 その1

制度の転換へ

1819年5月8日にカメハメハが他界しました。そして、長男のリホリホが王位を継承しました。カメハメハは、長男のリホリホの執政能力に不安を感じていました。そのためカメハメハは摂政(クヒナ・ヌイ)の地位を新設して、リホリホの義母にあたる妻のカアフマヌをその地位に充てました。カアフマヌは、リホリホの妻のケオプオラニと協力して、12世紀以降続いていたカプ(ルール、タブー、規制)の廃止を進めていきました。土着信仰として根付き、そしてカフナ(神官)たちの立場的優位性を築いてきたタブーを率先して破ります。その行為はまさに、神とカフナ(神官)の存在を否定することでした。こうして古代宗教の神殿は破壊されて、礼拝や生贄といった儀式も中止されることとになりました。このカプの廃止によって、階層構造により保たれていた秩序や規範も崩壊して、ハワイ王国は波乱の時代を迎えることになりました。

プロテスタントがハワイへ

1820年3月31日、アメリカ海外伝道評議会が派遣した聖職者ハイラム・ビンガム、アーサー・サーストンらを乗せたタディアス号がニューイングランドよりコハラに到着しました。彼らはそこで見たハワイ先住民たちの非道徳的な振舞いに衝撃を受けることになりました。

男はマロと呼ばれるふんどしのような帯のみを身につけて、女は草で作った腰みのだけを身に付けて、フラダンスという扇情的な踊りを踊り、生まれた幼児を平気で間引くという行為。これらの彼らの文化は、とても無知で、とても野蛮で、非人道的なものであると理解するに十分でありました。こうした風紀と社会秩序の乱れを回復しなくてはならない。と、ビンガムを主導として宣教師たちはプロテスタンティズムによる社会統制を試みました。こうしたアメリカ人宣教師たちの影響は次第に教育、政治、経済の各分野へと広がっていきました。

外交の発展により、ハワイ王国では貨幣経済が急速に浸透していきます。後払いによる外国製品の輸入を続けたために、みるみる負債が膨らんでいきました。この状況を打破しようと、1823年11月23日、リホリホは王妃のカママルを連れて、貿易問題の解消を求めてイギリス・ロンドンへ赴きます。しかしリホリホとその王妃一行は滞在先で麻疹に感染してしまいます。王妃カママルは1824年7月8日に、リホリホは7月14日に他界してしまいました。リホリホの死を受けて、わずか10歳の弟、カウイケアオウリが1825年6月6日に大王に即位しました。宣教師たちは実質的な実権を握る摂政カアフマヌに近づき、ハワイのキリスト教化をすすめることに成功しました。

走り出したい貴方へ

ハワイ近代化へ

1827年、フランスよりカトリック教会の宣教師がハワイへ上陸しましたが、すでに、プロテスタントが浸透しつつあったハワイでの他の宗派の影響による混乱を心配したたため、カアフマヌはカトリック教会の宣教しへ退去を命じました。1837年、再びカトリック司祭が来航したことから1837年12月18日、ハワイでのカトリックの布教と信仰の禁止の命がカウイケアオウリより下されました。この命は1839年に解除されましたが、太平洋の他の諸島とは違って、ハワイではプロテスタントの影響は優勢であり続けることになりました。

プロテスタントの宣教師たちは、まずハワイ人に読み書きから教え始めて、1822年にはアルファベットによるハワイ語が確立します。1834年には太平洋地域で初となる新聞『カ・ラマ・ハワイ』(1834年6月マウイ島)、『クム・ハワイ』(1834年10月ホノルル)が発行されました。そして1839年には聖書が出版されました。徹底した文教政策が成功して、ハワイ住民の教育水準は飛躍的な高まりを見せることになり、教育水準の高まりが、近代化を加速度的に進行することになりました。しかしこれは同時にハワイの伝統的な文化の断絶を意味することになりました。

1832年、カアフマヌが他界したため、摂政の後任としてはカメハメハの娘にあたるキナウが就任しました。

ハワイ王国は西欧的社会の移入を押し進めていき、イギリスのマグナ・カルタを基に1839年に「権利宣言」を公布、翌1840年10月8日にハワイ憲法が公布されて、立憲君主制が成立しました。1845年には基本法によって行政府として王、摂政、内務、財務、教育指導、法務、外務の各職が置かれ、15名の世襲制議員と7名の代議員からなる立法議会が開かれる運びになりました。

しかし、、まだなじみの浅い西欧文化に戸惑うハワイ人をよそめに、ハワイに帰化した欧米の外国人がハワイ政府の要職に就く様子が見られるようになりました。こうした土壌で、1852年にはハワイ新憲法が採択されることになりました。この新憲法にはエイブラハム・リンカーンが奴隷解放宣言を行うはるか前に、奴隷制禁止条項が盛り込まれているので、かなりリベラルなものとなりました。こうした西欧化はアフプアアを伝統とした土地制度にも及び、欧米的な土地私有の概念が取り込まれました。1848年には土地法が制定され、ハワイの土地は王領地、官有地、族長領地に分割されました。しかし1850年に、外国人による土地の私有が認められるようになると、対外債務を抱えていたハワイ政府は土地の売却で負債を補うようになり、1862年までの12年の間に、ハワイ諸島の約75%の土地が外国人の支配する土地となったため、生活の基盤を失うことになりました。

※アフプアアとは?

アフプアアとは、古代ハワイでのもっとも基本的な土地利用単位。、生活の単位でもあり、 社会経営の単位です。アフプアアの語源は、アフ(台、祭壇)+プアア(豚)ということです。アフプアア同士の 境界線上には、豚の頭をかたどったククイの木の像が置かれていたことにアフプアアとなりました。

ハワイでランニング

ハワイ王朝を巡って

1854年に、カウイケアオウリの亡くなりその後、1855年1月11日に、摂政の立場であるキナウの次男アレクサンダー・リホリホが王位に就きました。この頃の行政府内にはアメリカ系、イギリス系、先住ハワイ人という3つの対立したグループが形成されていました。前王が採択した一般成人男子の参政権獲得による王権の失墜を危惧したアレクサンダー・リホリホは兄のロト・カメハメハと協力して、貴族主義的な君主制の確立を目指しました。イギリスの王制を高く評価していたアレクサンダー・リホリホは1860年、「ハワイアン改革カトリック教」という名のエピスコパル(イギリス国教会系)をハワイに設立して、イギリス本土よりトーマス・ステイリーをはじめとする英国国教会の聖職者を招聘しました。この背景には息子アルバートを洗礼させて、イギリスのヴィクトリア女王を教母として立てることで列強諸国と対等の関係を築こうとした政治的思惑があったと思われます。しかし、1862年に溺愛する息子アルバートを亡くし、そのショックから立ち直れぬまま翌1863年11月30日にアレクサンダー・リホリホ自身も死亡したので、この計画そのものが終わりました。王位は即日、兄のロト・カメハメハが継承しました。

ロト・カメハメハは王権復古を目指して、1864年8月20日に新憲法を公布しました。親英国の王が続いたことでハワイ王国がイギリスに傾斜することを危惧したアメリカ合衆国は、極秘裏にハワイ王国の併合計画を始めました。こうした中、次代の王位継承者を指名することなくロト・カメハメハが1872年に急逝しましした。王位決定権が議会に委ねられ、親米派のルナリロが1873年1月9日に即位しました。ルナリロはアメリカ人を閣僚におき、アメリカからの政治的、経済的援助を求める政策を執り行いました。アメリカとの互恵条約締結を目的とした交渉がなされましたが、ルナリロが結核にかかり、そのまま亡くなったため、王位は再び議会に委ねられることとなりました。選挙の果、カメハメハの有力な助言者カメエイアモク、ケイアウェアヘウルの子孫に当たるカラカウアが当選して、1874年2月13日に即位しました。

カラカウアは前王ルナリロの意思を継いで、1875年6月3日、米布互恵条約締結を成し遂げました。この条約によってハワイの全ての生産品は非課税でアメリカへの輸出が可能となりました。第4条として「ハワイのいかなる領土もアメリカ以外の他国に譲渡・貸与せず、特権も与えない」との文言が組み込まれたので、ハワイのアメリカ傾倒へ拍車が掛かることにもなりました。

1883年、この条約の有効期限を7年と定めていた最初の条約の期限が近づきました。この条約は米や砂糖の生産業者などアメリカ国内において、合衆国の利益を損失するとして少なからぬ批判が噴出していましたが、上院議員ジョン・モーガンなどの帝国主義的拡張論者たちによって、「その他の、より高次元な益がある」として反対勢力を押さえ込み、かねてよりモーガンが主張していた真珠湾の独占使用権を獲得することを条件として、1887年11月に条約の更新がなされることになりました。

1887年に、秘密結社ハワイアンリーグが設立されましたが、これは野党議員ロリン・サーストンが中心となって急進的な改革を志向する秘密結社でした。1887年6月30日、秘密結社のハワイアンリーグはハワイの白人市民義勇軍ホノルルライフルズと協力して、カラカウアに対して首相であったウォルター・ギブソンの退陣と新憲法の採択を要求しました。この要求に対して、有効な手立てが取れなかったカラカウアは自ら組閣した内閣を解散することになりました。その後、ホノルルライフルズらが起草した新憲法を、ほどんど強引にカラカウアに承認させることになり、1887年7月6日に通称ベイオネット憲法が成立しました。この憲法で、ハワイ王権の弱体化はさらに進むことになりました。カラカウアは強大化してきたアメリカ系勢力を牽制しようと、日本を盟主とする東洋諸国との同盟にベイオネット憲法の廃案を画策したりと、王権の復古を試みていきますが、1891年1月20日、カラカウア(第7第ハワイ王)は志半ばで、サンフランシスコにて客死してしまいました。

1891年1月29日、後任としてリリウオカラニ(カラカウアの妹)が王位に就きました。しかし、リリウオカラニが指名する閣僚が、再三にわたって就任を拒否したたため、内閣が成立しないという政治危機が続きました。1892年11月8日、ようやく組閣のための閣僚承認がなされました。

リリウオカラニは山積する問題の中で、財政難打破の対策を打ちます。それは宝くじやアヘンの売買を認可制度の下に許可するという法律でした。そしてその法律を制定しましたが、この政策に対して、アメリカ系白人勢力から道徳的観点からの批判が噴出することになりました。また、ベイオネット憲法に不満を募らせる王権派ハワイ人たちへの対策として、1864年の憲法をバックグラウンドとした新憲法の制定を計画しました。しかし、こうした王政の戻ろうとする動きに危機感を覚えたアメリカ公使ジョン・スティーブンスはロリン・サーストン、サンフォード・ドール(※)たちと接触して、ハワイの併合に対して、ハワイ王国の転覆と暫定政府の樹立という具体的な計画を始めることになりました。

サンフォード・バラード・ドール(Sanford Ballard Dole)1844年4月23日 - 1926年6月9日

ハワイ王国、ハワイ臨時政府、ハワイ共和国、およびアメリカ合衆国のハワイ準州(自治領)の政治家・裁判官を歴任しました。ハワイ共和国で唯一の大統領でハワイ準州初代知事です。ハワイ王カラカウアやその妹リリウオカラニの弁護士として、また友人として仕えました。ハワイ社会やハワイ文化の西洋化を主張して推進しました。後のドール・フード・カンパニーを創業したハワイのパイナップル王ジェームズ・ドールは従弟です。

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