ハワイでマラソン!目指すはゴール!

ハワイでマラソン!目指すはゴール!

ハワイ王国繁栄と衰退 その2

ハワイ王国崩壊へ

1893年1月15日、サーストンらの呼びかけで前日結成された「公安委員会」を名乗る組織が、一般大衆に対し、ホノルルライフルズ部隊本部にて市民集会を開く旨の呼びかけを行いました。これに対して、王権派の閣僚は反逆罪の適用を検討しましたが、無駄な衝突を避けるようにと強く主張するアメリカ系の閣僚の声もあったため、対抗する集会をイオラニ宮殿で行うことが決定されました。

この目的は、この集会でリリウオカラニによる「新憲法を公布しない」という声明を発表するものとして、これ以上の混乱を阻止しようというものでありました。

翌1月16日、ホノルルライフルズで開始された集会でサーストンはリリウオカラニ女王を糾弾します。そして市民に自由の獲得を!ということを訴えました。この動きに呼応して、スティーブンスは米国軍艦ボストン艦長ギルバート・ウィルツへ「ホノルルの非常事態を鑑み、アメリカ人の生命および財産の安全確保のため海兵隊の上陸を要請する」と通達ししました。そして、要請から同日午後5時に、将校を含む武装した海兵隊164名がホノルル港へ上陸しました。

1月17日、サンフォード・ドールは新政府樹立の準備のために、任に就いてた判事を辞任しました。午後2時、政府庁舎に公安委員会一同が集結すると、ヘンリー・E・クーパーによってハワイ王国の終結及び暫定政府の樹立が宣言されました。駆けつけたホノルルライフルズたちによって、政府庁舎と公文書館が占拠され、戒厳令がひかれました。ドールは暫定政府代表として、各国の外交使節団とそしてリリウオカラニに対して、暫定政府の樹立を通達しましたた。リリウオカラニはスティーブンスに対し特使を派遣し、アメリカが暫定政府を承認しないように求めましたが、スティーブンスは「暫定政府は承認され、アメリカはハワイ王国の存在を認めない」と回答しました。これを受けて、リリウオカラニはドールに対して次のように述べています。

走り出したい貴方へ

リリオラニの声明と諸国の反応

「私、リリウオカラニは、神の御恩寵によって、また王国憲法のもとに、女王として、この王国に暫定政府の樹立を求める特定の人々が私およびハワイ王国立憲政府に対しておこなった反逆行為すべてに対して、ここに厳重に抗議します。

……(中略)…… 軍隊の衝突と、おそらく生命の喪失となることを何としても回避せんがため、米国政府が事実を提示されたうえで、アメリカの外交使節のとった行動を取り消して、ハワイ諸島の立憲君主としての権威の座に私を復位させる時が来るまで、私はこの抗議をもって、私の権限を放棄いたします。 1893年1月17日 R・リリウオカラニ」

との文書を送付しました。暫定政府樹立宣言後、ドイツ、イタリア、ロシア、スペイン、スウェーデン、オランダ、デンマーク、ベルギー、メキシコ、ペルー、イギリス、中国、日本といった国々が暫定政府を事実上の政府として承認しました。

そして、ハワイをアメリカの保護下に置くよう併合交渉を進めていた暫定政府に対して、2月1日に、スティーブンスは米国公使としてその要求を承認して、ハワイ政府庁舎に星条旗が掲げられました。

ハワイでランニング

アメリカ本国の反応

しかし、リリウオカラニの抵抗に、アメリカ国内にでのリリウオカラニ女王支持派、およびスティーブンスの取った強引な手法に対する世論の反発などもあり、すんなりと併合にこぎつけられずにいました。この事実を知ったグロバー・クリーブランド大統領(アメリカ第22代および第24代大統領)は、スティーブンスの更迭を行いました。そして、アルバート・ウィリスを公使に任命しました。ウィリスはクリーブランド大統領の指示のもとに、道徳的観点から暫定政府の取り消しとリリウオカラニの復位の道を模索しました。

1893年11月4日、ウィリスはリリウオカラニ女王が軟禁されているホノルルへ赴き、国家を転覆させた反逆者の処遇をどのように希望するかを確認しました。リリウオカラニは「法律上は死刑であるが、恩赦を認め、国外追放に止めるべきである」との認識を示したのですが、後日の新聞紙面上には「女王が暫定政府の死刑を求める」との文字が躍ることになりました。この捏造報道はその後訂正がなされましたが、ウィリスは12月20日、ドールに対して、「リリウオカラニを正式なハワイの統治者であることを認めて、現地位と権力の全てから退くこと」というクリーブランド大統領のメッセージを伝えました。

こうした状況からドールらは、クリーブランドの大統領在任中での併合は不可能。と判断します。「過ちがあったのはアメリカ政府の機関であり、暫定政府とは無関係である。クリーブランド政権の要求は内政干渉に当たる」とした回答を12月23日に発表しました。さらに、暫定政府を恒久的な政府として運営するために、ハワイ共和国と名前を変更して、1894年7月4日、憲法の発布と新しい国の誕生を宣言しました。そしてハワイ共和国の初代大統領には、ドールが就任しました。

1895年1月16日、王政復古を目指すハワイ人系の反乱が起こりました。そして、鎮圧に当たった政府軍に死亡者が出る事態になりました。この反乱にリリウオカラニは直接関与していませんでしたが、弾薬や銃器を隠し持っていたという理由で、他の王族とともに反逆罪で逮捕されました。こうしてリリウオカラニは王位請求を諦めて、ハワイ共和国への忠誠を誓い、一般市民として余生を送る旨の宣言書に署名しました。

1898年1月のハバナで起きた暴動をきっかけとして、米西戦争(アメリカとスペインの間)が勃発しました。この戦争は太平洋上のスペイン領土を巻き込み、そこに戦局を展開するための恒久的な補給地が必要であるとした世論が巻き起こりました。

アメリカはすでにハワイの真珠湾独占使用権を獲得していましたが、これをより強固にすべきものとして、ハワイ併合派の声が非常に大きくなりました。

1898年7月7日、ウィリアム・マッキンリー大統領(アメリカ第25代大統領)はハワイ併合のための決議案に署名します。ハワイの主権は正式にアメリカ合衆国へ移譲されました。

1900年4月には、ハワイ領土併合法が公布されて、1900年6月にハワイ領土政府が設立されました。要職にはハワイ共和国下の官僚が就くこととなり、初代ハワイ領土知事として、元ハワイ共和国大統領であったドールが就任しました。その後1900年基本法と呼ばれる新法がひかれることになり、ハワイにもアメリカの諸法が適用されることになりました。

ハワイへ行こう!